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作品は誰のものか [折り紙]

小松さんのコメントに思うところを整理しようとしたけれど、
やっぱりうまくまとまらないので自分のところで書いておきます。

もともと、私は「縦のものを横にしただけでも、それが本質的なら」
という立場ですし。
「そんなに考えないでも~」と思ってしまう。
ただ、自分が他人の作品を横にしたときに自分の作品と言い切れるかと
いうと、それはやっぱり無理だろうな、と思います(笑)。
自分が他人の領域(と感じるところ)に踏み込みのは、やっぱり
躊躇してしまいます。
自分の作品を誰かが横にしたときに、そこに私が新しさを感じれば、
それはオリジナルとして認めたいな、とは思うのですが。

そういう意味では、私もやっぱり自分本位でしかない部分があって、
突き詰めれば「思いついた人が」ではなく「私が」と思ってしまう。
でも、そこについては創作者(?)に任せたいな、と。
クリエイターの良心というか、自負というか、そういうところに
判断を委ねたいなと思うわけです。
自分でなくても、誰かがちゃんと愛を注げるものなら、それで
良いのかな、と。
それは性善説的な甘えに基づいているのはわかっているんだけど、
まぁ、まだそれに甘えていたいお年頃なのです(笑)。

もう一つ、今回感じたのは純粋に「この作品が生まれて欲しいなぁ」
という感情でしょうか(ライオンもそうだったけど)。
良い作品の存続に「誰の」という議論はそもそも本質的なのか。
作品にとって、作者は絶対者なのか。
良くわかってないけど「作品自体の生存権」みたいなものがあるの
ではないだろうか、と思うのです。

その一方で、クリエイターの端くれとしては、自分の半端な作品を
「これ良いね!」などと言われるのは苦痛でしかないわけで。
切って捨てられる方がまだ良かったり(笑)。
むぅ、やっぱりまとまらない~。

今回の猿に話を限れば、小松さんの指摘するとおりで、構造的には
猫からほとんど変わってないので、オリジナル性は低いと思います。
が、
・膝になっているカドを外側に出したことで、「後肢と前肢」の
見立てが発生した。
・肩のラインがこの一折りで出るとは!
ということで、見立て本位で考えればオリジナル性が高い。

奇しくも小松さんが今号の「折紙図書館の本棚から」で最後に
レグマン氏の言葉を引用しています。
「見立ての発生した瞬間こそ、想像(創造)の瞬間」という
意見に私は全面的に賛成します。
そして、この作品の見立てが成立した瞬間は私のものではなく、
小松さんのものだと思うのです。

# まぁ、正直くやしいという気持ちもあるのだけど(笑)


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